あの人と初めて出会ったその日のこと。
何しろずいぶん昔のことだから、そりゃあいくらかの記憶は色褪せてしまっているけれど。
でも、ふたつの光に溢れたあの笑顔に惹かれた瞬間、それだけは、写真よりビデオより鮮明だと胸を張って言えるほどにはっきりと憶えています。
『ある日拓けた世界のすべて』 CAST:Okita,Kondou.
沖田は、餓死寸前まで追い込まれるほど貧しくも無いが来月の暮らしが心配にならなくも無い程度の、中の下といった家に生まれた。
父は沖田が生まれてすぐに亡くなったという。二歳の時に一番上の姉が婿を取り、一人減っていた家族がまた元の数に戻って、物心ついた頃沖田にとっての『家族』は彼自身を入れて五人であるものだった。母一人姉二人婿養子の義兄一人。義兄も物心つく頃にはすでにいた人だから、血の繋がった家族と大差なく思っていた。
大きくなるにつれて食べ物が少なく感じ、時にはひもじくもあったけれど、それでも沖田は自分を不幸だと思ったことはなかった。よい家族だと信じていた。
だが二番目の姉が嫁に行った頃には、沖田家の財政はもう随分傾いてしまっていた。何しろきちんと家督を受け継いだ稼ぎ主がいないのである。一家の柱は義兄が担ってくれたが、それで家族全員を養えるほど稼いでいるというわけではない。
おまけにちょうど同時期、長姉が身篭った。嬉しい報せではあったけれど、次女を送り出すのにかなりの金を供出した直後でもあり、母達は頭を悩ませた。一人減るからしばらくはなんとかやっていけるだろうと思ったのに、出産まで長姉にはきちんと滋養のあるものを食べさせなければいけないし、出産したらしたで今度は生まれた子供の食費がかかるのだ。このままでは相当暮らしを切り詰めないといけない。しかし、育ち盛りの末っ子にこれ以上ひもじい思いをさせるのはよくないのではないか。
母と長姉夫婦の三人で話し合った結果、沖田は知り合いの家に預けられることとなった。歳が離れていることとただ一人の男の子だったことでそれまでずっと猫かわいがりしていた末っ子だから、勿論本音では手放したくはない。しかし、飢えさせるのは可哀そうだ。彼らにしても苦渋の決断であった。
が、その結論を突然聞かされ、仰天したのは当の沖田である。なんだかここのところ妙に母たちがこそこそ夜中まで喋っているとは思っていたが、まさか自分を家から追い出す算段を立てていたなんて。……というのが、沖田の見解だ。可愛がられていただけに、唐突な突き放しを愛ゆえだなんて解釈出来なかったのだ。
沖田は嫌がった。嫌というか、何か気に喰わなくて苦しくて胸の中に黒い重いものが鬱積していくのである。
が、元々あまり表情を動かさない子供であったので母達は彼が嫌がっているとは気付かなかった。実際、彼は言葉に出して「出て行きたくない」と言ったりはしなかったのである。表に出したのは、それまでもなかなかタチの悪かった悪戯をさらにパワーアップさせた程度だった。母達は困りはしたが、それも知恵が付いてきたせいだろうとしか思わなかった。沖田の口から家を出ることを拒否する言葉は聞いたことが無かったから、強化された悪戯と沖田を送り出すこととを結びつけられなかったのだ。小さな末っ子の心情がよくわからない大人たちは、子供の悪戯レベルを脱しつつある沖田のそれに、ただただ困り果てた。
が、沖田も家を出たくなくて困り果てているから、折れる気は毛頭無い。悪戯は続く。理解されない。不毛な日々である。
そうこうしているうちに、沖田が引き取られる日がやってきた。前日はそれまで見たことも無いようなご馳走が出されたし、めいっぱい可愛がってもらったけれど、やっぱり沖田は内心で拗ねたままだった。その日の早朝、沖田はそろりと家から逃げ出した。
逃げると言ってもまだ五歳にもならない子供である。足で行ける範囲は限られていた。一生懸命走ったけれど、途中で疲れて、山のふもとの神社へ上る階段にへたりこんだ。そういえば朝食も食べていないのだと思い出すと、急にお腹がすいてきて泣きたくなった。しかしすでにかなりひねくれて育っていた彼は結局泣きはしない。しばらくじっとしていると少し落ち着いてきて、このまま階段に居てはすぐ見つかってしまう・と知恵を働かせ、脇の茂みの中に踏み込んだ。
それなりの背丈に茂った草は、小さな沖田がしゃがんでしまえばその全身をすっぽり隠してくれる。これなら当分見つかるまい。ほっとしたけれど、いつまでこうしていれば家を出ずにすむだろう・とふと考えたら答えが出なくて、眉根を寄せてうーん・と唸った。
ただ追い出されるのを待つなんて、嫌だ。じゃあどうしたら残れるのかな。いくら考えても分からない。分からなくて、考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
瞼の作る闇はとろりとして暖かい。ふわふわと遠ざかる意識の中で、いつかの夜に姉が歌ってくれた子守唄を微かに聴いた気がした。
「おい、ぼーず」
沖田の意識を呼び戻したのは、少し太い男の声だった。
「……?」
重い瞼を半分開けて、とろとろと顔を上げる。まだ脳みそは十分には働いていない。だが目はなんとか目の前の人間を捉えた。
沖田の着ているのと同じかそれ以上に着古された、小汚い着物と袴。胴に巻いているのは水か食料か、とりあえず何かの入った風呂敷包み。そして日に焼けた、がっしりと筋肉のついた手が、被った笠を軽く持ち上げていた。下から覗くのは知らない男の顔だ。義兄よりは若そうだが、とりあえず沖田よりずっと大きい。
人攫いだろうか、と一瞬身構える。だが、そんな沖田の素振りには気付きもしないふうで、男は小首を傾げた。しゃがんで、沖田と目線を合わせる。
「大丈夫か?死んでるかと思ったぞ。」
その声がどうやら本気で心配しているようで、なんだか警戒しなくてもいい気がしてきて沖田は肩の力を抜いた。勘に近かったが、どうやら悪い人間ではなさそうである。
「……だいじょうぶ、でさァ」
こくんと頷くと、そうかー、とにこにこしながらぽふぽふ沖田の頭を叩く。その笑顔があまりに邪気がないので、沖田はぽかんとして男を見つめた。村の人間ではない、やっぱり知らないよその人だ、なんなんだろうこの人は。沖田の疑念をよそに、相手は眉毛を八の字にしてむう・と唸る。
「なんでこんなとこいたんだ?蚊に食われちゃうぞ。かくれんぼか?」
「……。違いやす…」
俯き気味にぼそぼそ答える。人が好いのは分かったがそろそろ律儀に返答してやるのが面倒臭くなってきた。というかよく考えてみればそもそもこんなことをしている場合ではないんだ、家に残る方法を考えなくてはいけない。
「…放っといて下せェ」
「ん?」
「なんでもないです。放っといて下せェ」
憮然として言う。一切感情を込めないよう、出来るだけ冷たい声になるよう努めて言ったから、見ず知らずの他人なんかすぐに機嫌を損ねるか怯むかして立ち去ってくれるだろう。そう思って、目の前の影が消えるのを待っていた。のに。
「…放っといて、って、言われても……」
再び聞こえた声は、なんだか酷く困ったような声音だった。
ふわり・と頭を包む、温かなてのひらの感触。
「…お前、今にも泣きそーなカオしてんじゃねェか。」
一瞬、息も心臓も止まった気がした。
誰にも分からない。見抜けない、沖田の表情は本当に緩慢な動きしか見せないし動かないことも多いから。その奥の感情なんて。
あんまり見抜かれないから、元々見抜かれる感情自体自分には無いんじゃないか、そう思い始めていた。家を出て行くのは嫌だったけれどそれはきっと今の自分が満ち足りていると思うからで、沖田は基本的に現状以上も以下も求めなかったからつまり変化を嫌っただけなのだ。感情じゃない。愛情、愛着じゃない。自分は見た目どおりの機械みたいな人間だ。母達に面と向かって「出て行きたくない」と言わなかったのも、表に噴出するほど感情が多くないからだ。そう思った。思って、いた、のに――…
「…あ、あーあー」
男の声が少し慌て始める。どうしたのだろうと思ったときにはなんだか目の前が歪んでいて、そして歪んだ世界の中で男がごそごそと懐を探った。
中から出てきたのは、白い手拭い。それが近づいてきて、ぽふ・と目尻を包んだ。
「ほら、泣いちゃった」
言われて気付いた、ああ俺は泣いているのか。
俺は、泣きたかった、のか。
認識するとまたぼろぼろ滴があふれてきて、止まらなくなった。慌てて手の甲で拭おうとしたら、大きな手にやんわり止められる。
「あんまりこすると後で痛くなるぞ」
それからまた白手拭いがそっと触れるようにして(ごつい手に似合わず丁寧な仕草だ)目尻を拭った。あたたかい大きなてのひらは、ずっと頭を撫でてくれている。そのあたたかさがまた酷く優しくて、母や姉が抱き締めてくれる時と少し似ていて、ほっとしたけれどそれは涙を助長した。こらえきれない嗚咽が漏れる。
ああ俺は泣きたかったのだ。一人きりにされるような気がして、一人はさびしくて、それでずっと泣きたかったのだ。
やっと理解した自分の衝動は、一度堰切ると止まらなかった。沖田は、泣き続けた。
泣いて泣いて泣きじゃくって、涙が涸れるまで泣き続けたらいつの間にか空の彼方が淡い黄色に染まり始めていた。まぁハナから昼近くまで寝ていたのだろうけれど、それにしてもどれくらい泣いたんだろう。腫れぼったくなった目をそろそろと上げると、なんともいえず優しい目がじっとこちらを見ていた。少し、どきりとする。
「…すっきりしたか?」
「……。う、ん」
しゃくりあげながら答えると、そうか・と返ってきた。わしわし、頭を撫ぜられる。
「ガキのうちは我慢なんてしなくていいぞ。悲しいときは思い切り泣いて怒るときは思い切り怒って、そいで嬉しいときにゃもちろん思いっきり笑え。で、護りたいモンは死んでも護れ。そーやって男ってのァでかくなるんだ!」
「…でかく……。」
「そうだぞ、でっかく!」
そう言って顔いっぱいに笑った男のその表情は、さっきまでの優しい微笑とはまた違ったあたたかさにあふれていた。
ああ、この人の中には月と太陽がそろって棲んでいる。
そのイメージは確かに、空を昼夜で交代交代に照らす二つの天体だ。ふわりと包み込む優しさと、目の前を真っ直ぐに照らしてゆく強烈な光。どちらか片方だけでも持っていれば大変な魅力なのに、この人は。
「――…」
「ん?俺、なんかヘン?」
きょとんとして訊ねてくる男に、ふるふると首を振る。もちろん横に。そうかー?と首を傾げながらも素直に納得した様子で、男はまたにかっと笑った。
「うん、元気出たか?じゃ、そろそろ帰んなきゃな!送ってやるよ、家どこだ?」
差し出された手を、一瞬だけ逡巡してぎゅっと握る。それを支えに立ち上がったら、今度は背中を向けられた。乗れ・という感じで。
「手ぇ引いて歩くと逆に疲れそーだからなー。嫌か?おんぶ」
「…いいですぜ」
少し笑って、ぴょんと乗る。わっ・と声が聞こえたが構わない。
「あんた村の人じゃねェでしょう。道々、指しながら行きまさァ」
「あーその方が助かるなァ」
「でもあんたも何か用事あって歩いてたんじゃないんですかィ?俺なんかにいつまでも付き合ってていいんですか」
「なーに、俺もそこの村に用があるんだ!特に時間は決めてなかったし、多少のんびり行っても大丈夫さ。っていうか…」
「?」
「実は、お前に会うまでずっと道に迷っててな!目指してた家がちっとも見つかんねーんだ、あはははは」
「……。…大丈夫、なんですかィ?」
「だいじょーぶだって!だから、お前届けるついでに道も訊こうと思ってよ」
からから笑う男に、ずいぶん楽天家な人だな・と思いつつも、ふーんと相づちを打って目の前の黒い頭にしがみついた。そういえば笠はいつの間に取ってくれたのだろうか。
男の歩みは大股で、速い。このぶんなら五分もしない内に家に着くだろう。そうしたら、一度、家を出たくない・とちゃんと言ってみよう。たとえ既に引き取り主が来ていても。心の中で、そう思った。
「ただいまァー。」
「ごめんくださーい。」
のんびり言うと、家の中からばたばたと慌しい足音がして、「総悟!」と呼ぶ声がした。数秒して、義兄と姉とが顔を出す。遅れて母も出てきた。
「あんたって子はもうっ、朝から何も言わずにどこ行ってたの!どれだけ心配したと……っ!?」
半分涙目で早口に説教を始めた姉が、目を丸くして固まった。その目線の先には可愛い弟をおぶる見知らぬ男。まぁ驚くのも無理ないかな・と他人事のように思った。
「ちょっ、総…この方、だぁれ?」
「たまたま知り合いになりやした」
「あ、すいません、初めまして。ちょっと道の途中で居眠りしてるこの子を見つけたもんで…。怪しい者じゃありません。あの、お尋ねしたいんですが…」
「あーそっか、あんた道訊くんでしたねィ」
「うん。あのですね、」
その後、にこにこしながら男が言い放った言葉に、姉たちだけでなく沖田自身までも一瞬固まった。
「俺、近藤と申します、家主の代理なんですが……今日、『沖田』って家で子供を預かる予定でこの村に来たんです。そういう家をご存知ありませんか?」
「………。」
長く続く、微妙な沈黙。あまりに不自然なリアクションなので、近藤はさすがに何か変だと悟っておろおろと頭上の沖田を見上げた。
「な、なあ、俺なんか変なこと言ったか?やっちゃったか??」
「……こんどーさん。俺の名前、聞きやしたかィ?」
「へ?あ、そーいや聞いてなかったな…。なんてーんだ、坊主?」
きょとんとしている男に、にやりと笑って、言った。
「沖田総悟、でさァ。」
「へっ……」
目を丸くして思い切り硬直した男に、くすくすと笑う。ああ、可笑しくてしょうがない。
そしてその時にはもう、沖田は快くこの男についていってやろう・と決めていた。
家を出るのが嫌でなくなったわけではないけれど、でも、この人なら。
太陽と月を抱えて笑うこの人が一緒なら、悪くはない。そう思ったのだ。
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明らかに柳生編の影響(笑) ちび沖+近出逢い話です。柳生編回想見る限り沖田のヒネクレは生まれついてのものっぽいんで、家族でもなかなかその真意を測るのは難しかったと思います…近藤さんは顔見ただけで分かってくれます大体(笑) 沖田の家族設定は少女漫画の「風光る」のうっすらした記憶を参考に適当に設定してみました。お父さんなんで死んだのとか沖田ってどういう名目で近藤さんとこ行ったんだっけ奉公だっけなんだっけとか色々自分でも曖昧なとこありますがそこら辺は全力でごまかし&スルーしました(ォィ)
ホントは続きとしてこの暫く後に土方さんと会って馴染むまでの話も考えてます。時間切れで多分半年後に持ち越し…悪くすると来年春(汗) 近藤さん大好きになっちゃった沖田の前に突然現れて居座り始めた土方さん、当然超邪魔者なわけできっと最初は本気で殺すつもりで色んな悪戯仕掛けるんだけど色々あって一応土方さんにも懐いて悪戯は天邪鬼的なものになりました みたいな話です、近藤さん話と違って細かい所まだあんまり考えてないから今から書くのは難しそうだと思って;;ひとまず近藤さん!近+沖・近+土は最強だよね……!(何が)
タイトル、一瞬「太陽とシスコムーン」が浮かびましたがさすがに即却下。懐かしすぎるわもう憶えてねーよ歌とか!今の子知らねーよ!!(年寄り発言)